Keep paddling project第6章

荒木珠里後援会メルマガvol.17のお知らせ


荒木珠里メルマガ vol.17(2021年2月1日)『曾祖母ちゃん』

文章:荒木珠里 (荒木珠里後援会 配信)


皆さん、こんにちは。荒木珠里です。この度は僕の後援会の入会・更新をしていただき本当にありがとうございます。今回は皆さんに大事な報告があります。

 

1月は僕たち家族にとってとても悲しい出来事がありました。僕の100才のひい婆ちゃん(お父さんのお母さんのお母さん)が亡くなってしまいました。

ひい婆ちゃんは僕が小学1年生の時にお爺ちゃんとお婆ちゃんと一緒に、当時住んでいた東京から沖縄に引っ越してきました。ちょうど妹の夏南風が産まれた時でした。当時ひい婆ちゃんは93才で、毎日大好きな絵を描いていました。若い時から素晴らしい絵画作品を沢山残していて、デイサービスの建物にも沢山飾られています。僕の妹二人は自宅出産でしたが、夏南風も、ティアレも、産まれたばかりの赤ちゃんを抱いて故郷・熊本の歌を楽しそうに歌っていました。一年生だった僕は熊本の歌を歌いながら登下校していました。99才になるとその歌もあまり歌えなくなりましたが、代わりに僕たちがひい婆ちゃんに熊本の歌を歌ってあげました。元旦には初詣に行き、夏には100才の誕生日を家族みんなでお祝いをすることができました。11月には妹たちの七五三のお祝いも皆で一緒にすることができました。そして今年の元旦、一月一日。大晦日は皆でテレビを見ながら新年を迎え、僕たちは深夜に帰宅しました。その後突然ひい婆ちゃんの口から沢山の痰が出て救急車で病院に運ばれました。

100才になると自分の力で痰を出せなくなり、それが気管に溜まっていたそうです。お正月から毎日お父さんとおばあちゃんは病院に通うことになりました。僕たちも見舞いに行きたかったのですが、緊急事態宣言が発令されているので病院の面会は一切禁止で会うことが許されませんでした。このままだと日に日に体が弱っていくだけなので、少しでも早く退院させようというお父さんの考えに皆が同意し、家族の代表としてお婆ちゃんとお父さんの2名が特別に許可をもらって病棟に入り機械を使った痰の吸引作業の練習に通いました。


年末もお正月も、海は大荒れでしたが僕たちは変わらずに毎日ハードなトレーニングを繰り返し、海から上がるとすぐに車を飛ばして病院に向かいました。ある日お父さんは強い風でFoilが顔にぶつかってしまい鼻を切る怪我をしてしまいましたが、幸い怪我はひどくなかったので出血をマスクで隠しながらひい婆ちゃんの痰の吸引練習をしていました。僕はお父さんの後に陸に上がった時は、タンクに積んだお湯で体を洗う余裕もなく、潮まみれの状態で車の中でウェットスーツを着替えました。そのくらい病院の面会時間は厳しかったです。

1月18日、お父さんもお婆ちゃんも痰を吸引する機械も十分に使えるようになりました。その機械も自宅に準備し、僕はその機械を置くための机を組み立ててひい婆ちゃんの退院の準備は整いました。お婆ちゃんは、ネットや資料を勉強して流動食を沢山準備しました。その日も海から上がってすぐに病院に向かって痰の吸引も終わり、いよいよ退院の話を先生へ相談することができたので楽しみに帰宅ました。

その夜、看護師さんがひい婆ちゃんの様子を見に行ったとき、少し反応が鈍いことに気付きすぐに電話が入りました。深夜2時でした。僕たちが病院に駆けつけた時は既にお婆ちゃんとおじいちゃんは到着しており、お婆ちゃんが、

「かあさーん、もう少し頑張ろうねー。

一緒に家に帰ろうねー。」

と泣きながら声をかけていました。お父さんも必死に耳元で声をかけていました。僕たちも手や足をさすりながら、ひい婆ちゃんに声をかけ続けました。妹たちもひい婆ちゃん!起きて!と声をかけていました。ひい婆ちゃんの腕や足がとてもむくんでおり、僕とお母さんはずっとさすっていました。何度か心電図の針に反応がありました。その度に勇気が沸いてきました。しかし、ひい婆ちゃんはそのまま目を開けることなく天国に旅立っていきました。1月19日、深夜3時48分でした。まるで眠っているようでした。

ひい婆ちゃんが亡くなっても僕たちは寄りそっていました。4時半からお風呂に入れてもらい、魂を残さないようにお祈りをしました。僕はお父さんと一緒に付き添い人として車に乗り込みました。家へ向かう途中、お父さんがこういう話をしました。

「ひい婆ちゃんは、退院した後、介護するお婆ちゃんにも、周りの僕らにもこれ以上、負担をかけたくなかったのかもしれない。ひい婆ちゃんはそういう事を心で分かっていたのではないかな。自分たちはその分、これまで以上に気合入れて頑張らないといけない。」

僕もそう思いました。お父さんが最後に痰の吸引で病院に行ったとき、ひい婆ちゃんの隣でお婆ちゃんが退院させたい、明日にでも自宅に連れて帰りたいと看護師さんに話をしていたそうです。そしてお父さんが病棟から出るときいつものようにひい婆ちゃんに手を振ったら、ひい婆ちゃんも久しぶりに笑ってくれた。と言っていました。人によって死の受け入れ方は違うと思います。でも僕たちはそういうふうにひい婆ちゃんの死を受け入れました。帰宅して3時間後、僕たちは皆でひい婆ちゃんを納棺しました。翌日はひい婆ちゃんを火葬する準備をしました。お棺の中に、ご先祖様や、ひい爺ちゃん(僕が小学3年生の全日本SUP選手権の時に亡くなりました)へのお供物のお菓子を入れました。

お菓子は子、孫、ひ孫の名前を書いた手紙で包みました。僕とお婆ちゃんは半紙にひい爺ちゃんへの手紙を書いてお菓子を包みました。他にも、お棺の中にはお母さんが書いた「ありがとう」のメッセージ、天国で使う白いタオル、ひい婆ちゃんの絵画と大好きな色鉛筆、スケッチブック(これからは天国で絵を描けるようにと)、ひい婆ちゃんが普段身に付けていた洋服と帽子、靴、ブローチ、お酒、お茶っ葉。そして毎回誕生日の時に皆で書いているバースデーメッセージ(99才の時のもの)、そして僕が学校で書いた「感謝」の習字を入れました。そして最後にお棺には全員で寄せ書きを書きました。沢山の文章で棺桶が見えなくなるくらいの沢山のメッセージでした。13時、僕とお父さんたちと力を合わせて出棺しました。


熊本から駆けつけた拓也ニーニ(お父さんの兄)と東京から駆けつけた陽子ネーネ(お父さんの妹)も合流し、皆で火葬場に着きました。ひい婆ちゃんの顔を見るのはこれで最後だと思い、しっかりと顔を見てお別れました。シワひとつない本当にきれいで眠っているようなひい婆ちゃんは僕は一生忘れません。13時45分、お婆ちゃんとお父さんの二人が代表で火葬のスイッチを入れました。とっても悲しくて、悲しくて仕方ありませんでした。2時間後皆で収骨しました。ひい婆ちゃんのお骨はとてもしっかりしていて流石だと思いました。お婆ちゃんが胸にお骨を抱えて帰宅して、お坊さんにお経を唱えてもらい葬儀は終了しました。人が亡くなってお骨になるのはあっという間だと思いました。

ひい婆ちゃんは、贅沢を好まず、頑張り屋で、ただひたすら家族のために慎ましく生きた。と、ひい婆ちゃんの長女の昌子おばちゃんは言っていました。まだ、クリスマスケーキなどおしゃれなスイーツのない時代、無水鍋で焼いたスポンジケーキにバタークリームを作って塗ってくれたり、ひい婆ちゃんの長男、隆一おじさんの修学旅行に持たせた茹で卵が、実は生卵だったと気付き、バスで八停留所分離れた熊本駅まで、茹で卵を歩いて届けた話を聞きました。他にも、僕が小学3年生の時、家の前の海に散骨したひい爺ちゃんが残してくれた日記から、戦時中の満州での苦労話や、戦後3人の幼い子供たちを中国から連れて帰ってきた話などを知り驚きました。貧しさや苦しみを幾度となく乗り越えたひい婆ちゃんは100年頑張って生きて、僕たちという子孫を残してくれました。僕たちは夏休みには毎年熊本に帰ってお墓参りをします。その度にひい爺ちゃん、ひい婆ちゃんたちのことを誇りに思います。もう少し僕が早く生まれていたら、ひい爺ちゃんから戦争の時の話を聞いたり、ひい婆ちゃんから絵画を習いたかったです。


ひい婆ちゃんの永い人生はとうとう終結しましたが、これからは僕たちの人生だとお父さんは言っています。一昨日は外洋トレーニングをしていたら、ひい婆ちゃんがサメになって会いにきてくれました。いつもなら足の力が抜けるほど怖いのですが、その時だけは不思議に冷静でいることができました。僕の夢は2028年、ロスオリンピックで金メダルをとること。その前にハワイの60kmモロカイレースで世界チャンピオンになることです。この夏はSUP14ft.部門で毎年モロカイで連勝しているジョッシュ・レチオという憧れの選手を倒して1位になります。これからも、後援会の皆さんの応援を力に練習を頑張ります。そして最後の最後まで、贅沢を好まず、家族のために生きたひい婆ちゃんのことを忘れず。ご先祖さまに感謝しながら生きていきます。

 

日本人がこれまで一度も優勝したことがないモロカイチャレンジで、絶対に世界チャンピオンになります。ひい婆ちゃんいつも見守ってくれてありがとうございます。

 

keep paddling. 荒木珠里


KEEP PADDLING PROJECT.

進むべき道を自分で決断し、継続できる人間力


この度は我々一家にとって、そして珠里にとってとても大切な曾祖母の他界の報告をさせていただきました。本プロジェクトは荒木珠里が世界チャンピオンを目指し、大人へと成長する中で、幾度となく乗り越えなくてはいけない人生の壁への挑戦、その課程を綴ったものです。

 

第1章は小学6年生でマウイ島からモロカイ島へ、45kmの海峡横断レースに挑戦しました。第2章は競技から冒険へ、奄美大島から沖縄本島まで240km、冬の荒海を家族全員で人力縦断。そして第3章はいよいよ世界最高峰の海峡横断レースM2Oへ、史上最年少13才(中一)で挑みました。第4章は昨冬3月、世界中を襲ったコロナ情勢直前のオーストラリア遠征、世界の大人のエリート選手相手に3位という大快挙を上げました。そして昨夏、コロナ渦の中でも目標に向かって高い意識で沖縄から与論、30kmの海峡縦断へ伴走船無しで挑んだ様子を第5章にまとめました。

 

地球と人間の知恵比べは長い経験に裏打ちされた頭脳明晰な判断力と、物事を直感的に感じる野生の勘。失敗や不安、恐怖といったネガティヴな心と向き合う相当な人間力が必要です。私たちは四方を海に囲まれたこの国で、我が子がのびのびと、逞しく育って欲しいと願いつつ外洋ダウンウインドレースを毎年主宰しています。 「自分は一体どこまで進んだのか?そしてどこに向かっているのか?島までこの先後何キロあるのか?」「もしかしたら自分の体力はもたないのではないだろうか?」もし洋上で熱中症になってしまったら、道具が壊れてしまったら、もしサメが襲ってきたら。。

 

私たちは常日頃から先人への感謝の気持ちを忘れず、先祖と繋がっていると信じ、常に最悪の事態を想定しながら深い海に漕ぎ出しています。過酷な状況でも、腐らず、投げ出さず、悲しみや恐怖に背を向けずに進むべき道を見つけ出し、そしていつの日か偉大な夢を実現する。その力が我々の座右の銘”KEEP PADDLING.”です。

 

今後とも夢を一心に追う荒木珠里を暖かく見守っていただけますよう宜しくお願いいたします。

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